自己紹介&これまでの流れ


和太鼓との出会いは22歳の時になります。
社会人として最初にした仕事は私立の保育士で、たまたまそこの保育園がかなりのスポ根で和太鼓やマーチングをやっていました。子どものみならず、和太鼓は職員までもがやっており、定期的に発表の機会がありました。

園長先生から「あなたは和太鼓、似合うと思う。職員太鼓もやって、この子たち(年長児クラス)にも指導できるようになって欲しい」と言われ、時おり年長児クラスに補助役として配置されるようになりました。ベテランで組む職員太鼓も、同期の中では自分だけ特別に参加させて頂きました。

最初園長先生に言われた時は嬉しかったのですが、基礎が無いままいきなり配置、補助する立場になり、何をどう動いていいか分からず、子どもの前であろうが何だろうが怒られていました😅
子どもからも馬鹿にされて統制が取れず、カナーリ舐められていましたね😂

当時はまだ新人を気遣いながら教えるような風潮もなく、「出来ないのは100%教わる側の責任」という雰囲気でした。
いきなり現場に放り込まれて「先輩を見て覚えよ」「分からなければ聞きに来い」という育て方が主流で、出来なければ出来ないまま放っておかれ、右往左往した挙げ句、最終的には怒られるような感じでした😂
先輩に聞く内容を整理し「聞きに行く」という行為だけでもかなりのストレスでした。
聞きに来いとは言うけれど、怖くて聞ける雰囲気ではありませんでしたから😅
でも勇気を出して聞きに行ったら、案の定イヤな対応をされることもありましたが、先輩によっては、勤務時間外にも関わらず時間を割いて自主練に付き合ってくれることもありました。

聞きやすい先輩に聞きに行ったり、勤務後に自主練をすることが積み重なると、特に和太鼓が上達した訳でもなく、指導が出来るようになった訳でもないのに、ただ時間が経っただけで勝手に上手くなったとか言われて、怒られなくなっていきました。一部の大人が変わるとそれが波及して、子どもからも自然と馬鹿にされなくなっていきました。
(でも、自分のキャラ的なものもあってか、新人の間はずっと舐められやすい先生だったかもしれません😂)

その時自分は、時薬には2種類あるのではないかと思いました💊
ネガティブな思い出を癒していくタイプと、物事を続けていると周りが勝手に変わっていくタイプ…。

社会人一年目、ひとつ学んだ気がしました。(そして全然学びを活かせていない現在…😅)


その後子ども向けのスイミングスクールを経て公立の幼稚園に転職しますが、最初の保育園で言ってもらった言葉がずっと心に残っており、和太鼓の似合うカッコいい人間になりたいと思っていました。でも全くなれていない現実とのギャップが悲しく、理想を叶えたい想いから、家から電車一本で通える某和太鼓チームに所属することにしました。

そこはなかなかの大所帯で、大きく分けて2つのクラスがあり、それらが更に習熟度別に2つに分かれていました。1番上級のクラスの子たちは中高生を中心に構成され、全国大会に出たり、色々な所から依頼を受けて演奏したりしていました。

自分はただ、自分自身がカッコ良くなりたくて和太鼓をしたかっただけなので、本来ならビジネスとしてやっている和太鼓スタジオでお客としてレッスンを受け、あとは個人活動や仲間探しをすれば良かったのですが、当時はそんな考えが浮かびもせず、何となく実情を知らないまま、大会を目指す大所帯チームに入ってしまいました。

そして入って半年、思わぬ事態に…😅
突然チーム内に幼•小のクラスが新設され、子どもたちも知らぬ間に集まっていました。指導者の手が回らなくなったことと、小さな子どもを扱うノウハウが無かったことで自分が目をつけられ、「初級のクラスを2つ受け持って基礎練習を中心に行い、ある程度育った子は上級クラスに送り出す」という役割を強く求められました。

「全国大会に出場するチームで指導する機会を与えるのだから、有り難く思って引き受けるべき。」と猛烈に押され…と言うか、もう指導者の頭では計画が出来ていたようで、流されるような形で引き受けてしまいました。自分は何がしたいのか、本心が分からなくなりました。そしてそのまま3年近くも続けてしまいました。
指導者からの辛辣な言動や壮大な夢を語られる度に「自分は彼の夢の為に利用されている?」という疑問が強まっていき、いや、成長するいい機会を与えて貰っているのだと打ち消す日々が続きました。

元々器用な人間ではない為、求められるものが大きかったことやストレス、年々忙しくなる本職との兼ね合いで疲れ、結局最後は半ば強引にチームを離れることとなりました。子どもや保護者には本当に申し訳なかったです。

今振り返って思うのですが、当時指導者は相当なパワハラーでしたが恐らく、お互いwin-winの関係になろうとしていたのかもしれません。
でも元々のベクトルが違ったこともあり、自分が若かったこともあり、当時はそのようなことは考えもしませんでした。(ようやく今の状況になり、win-winになったと思えるようになりました)

自分の願望を明確に把握することの大切さや、尽くす相手のベクトルを見極めること、自己犠牲で人に尽くしていると時間に比例して双方の被害が大きくなることを知りました。
その後、和太鼓のことはもう思い出したくなく、縁がすっかり切れてしまいました。

3年の間に、へっぽこでも一応は「基礎クラスの指導者」という立場のお陰で、全国大会に2回出させて頂いたし、その為にかなりご指導頂いたのでそこは感謝しないといけないのですが、思い出すのは嫌なことばかりで全く楽しさはありませんでした😱

自分は和太鼓でカッコ良くなって輝きたかったはずなのに、何か思い描いたものとは全然違ったなー、という太鼓人生の前半でした😂


…そして7年の歳月が流れました。

時薬が効いたのか、ふと和太鼓をしたいなーと思う瞬間が出てくるようになりました。
もうその頃は仕事も今のゲイマッサージになって昼夜ゲイの世界にどっぷり浸かり、一般チームの所属へは興味が持てませんでした。

ゲイの和太鼓チームが東京にあると知り、数ヵ月の間参加させて頂きました。
当時は大阪に住んでいたので、数ヵ月の在籍とは言っても数える程しか練習に参加出来ませんでした。

でも、楽しくて、みんな優しくて、新鮮でした。「仲間と一緒に楽しい和太鼓」というものを初めて体験できたような気がしました。
皆同じセクシュアリティだったのも楽しかった理由の、大きなひとつかもしれません。

きっと自分は和太鼓でカッコ良くなりたい他に、一緒に居て安心できる仲間が欲しかったのだと思います。かつてのチームでは自分以外に同じ立場の人は居らず、トップとその周辺からはご指導を受け、教え子には指導し、保護者には安心の声かけをし…という感じで一人ぼっちでした。
もちろん我がクラスの子は可愛かったし保護者もいい人で、周りに人は沢山居たけれど、気持ちはどこか孤独でした。…恵まれているくせに、罰当たりなこと言ってるなと自分でも思います。
本当は、あのパワハラ指導者とタッグを組んで苦楽をシェアしたり、出来る範囲で支え合い、仲良く肩を組めれば良かったけど、すでに彼には仲間が居たし、厳しい上下関係の為にそれは不可能。加えてベクトルや性格も違いすぎた為、無理だったのだと思います。

話は戻って…
東京は遠いし参加が大変なので、大阪でゲイの和太鼓チームを探したのですが、大阪では見つけられませんでした。

もう自分でするしかないと思い、一人で始めました。
すると間もなく、近所に和太鼓をやっているゲイの人が居ることが分かり、二人で練習するようになりました。そして三人、四人とメンバーが増えていきました。

コロナが来たことで練習出来ない時期もありましたが、基礎を中心に、曲を覚えるのに必死とかではなく、形を意識しながら、丁寧に、叩くこと自体を楽しめるような練習をしていきました。

コロナが明け、良太郎本舗が東京に移転することになった為、大阪での活動は難しくなってしまいましたが、集まってくれたメンバー同士は仲良くなってくれて、何だか一緒に出掛けたりなどしているようなので、和太鼓の集まり自体は無くなったけど、ご縁を作ることが出来て良かったなーと思います。

良太郎本舗が東京に移転して暫くし、今度は東京で色々やってみたいという気持ちが出てきました。
誰か経験者と組んで和太鼓をするのもいいなと思うし、大阪の時みたいに東京で色んな人が集まってもいいなと思うし、ゲイの世界では和太鼓に興味を持っている人や憧れている人が多いような気がするので、長いブランクはあるけど、自分の経験を活かすことが出来るのでは?とも思いました。


…これが今までの経緯です⏳
これからは自分自身が楽しんで、その上で人の役にも立てるように、新たな太鼓人生を送っていきたいと思います😊